納涼会「熱い夏でした~~}
病棟の夏祭りに参加しました
第6回 伊豆高原ホテル1泊旅行
第6回目 伊豆高原1泊旅行 2015・7月27日・28日
- 小児がんを克服した子どもたち5家族と-
6回目、「がんばれ!子供村」の招待で「アンダ別邸 伊豆一碧湖ホテル」に5人の患児と家族11人、合計16人がご招待いただきました。3人のボランティアも一緒に19人が伊豆高原で食べて、飲んで、歌って、温泉に入って大はしゃぎ。子どもたちは病院で見たこともないような笑顔をふりまき、ご家族も、にこにこと見守っていました。応援ありがとうの声を紹介します。
これまでのホテル招待一覧
招待年 患児 家族 合計
2010年 6 (8) 14
2011年 7 (11) 18
2012年 6 (14) 20
2013年 7 (13) 20
2014年 8 (15) 23
2015年 5 (11) 16
合計 39人 (72) 111人
ホテルの招待は患者と親ときょうだいが無料。6年間の合計は延べ111人です。
、「がんばれ!子供村」http://www.kodomomura.com/achievement.html
ありがとうの声
{%男の子ブラウンdeka%}syu (27歳)
先日はがんばれこども村によるリゾートホテルへのご招待を頂き、ありがとうございました。一昨年と今年、2回参加出来て、大変うれしく
思います。僕は 14歳の時に悪性リンパ腫を発症し、ガラガラドンのいる病院で治療を受けました。学生時代は、入退院を繰りかえしながら、闘病生活を送っていました。大勢で楽しく笑ったり、遊んだり、普通の人が経験する思い出を作ることが出来なかったので、病気を克服した今、こうして笑ったり、食べたりすることで出来て、嬉しく思います。
このように楽しい時間を過ごせたのも、スタッフの皆様一人ひとりが準備やおもてなしといったホスピタリティ溢れる接客をしてくださったおかげです。ホテルを利用している方はいろいろな思いを持って、足を運んでいる方もいらっしゃると思います。また来たいと思うホテルに来ることができて、本当によかったです。今度は家族や友人を連れて、個人的にも利用したいと思っています。スタッフの皆様に心より感謝いたします。
{%女の子オレンジdeka%}akane 北海道在住(20歳)
伊豆高原のホテルには2年前にもお世話になりました。私は 17歳の時に急性骨髄性白血病を発症し、東京、新宿の病院で治療を受けて治りました。
それから北海道に戻り、調理師の専門学校へ通い、資格をとり、イタリアンのカフェレストランで働いていました。しかし、去年の9月に再発し約8か月入院をしました。札幌の病院で臍帯血移植をして、治療も順調に進み、 退院したのは今年の6月5日でした。入院中は、脚や腕などに湿疹できて、嘔吐、皮膚のひび割れ、眼の乾き、水下痢、発熱、目の痛みやドライアイに悩まされました。私は食べることが好きだし作るのも好きです。そんな私が抗がん剤治療を受けて一時期、味覚障害になりました。味はしないし、口の中が常に薬品(投与しているものの匂いなど)味がして、食欲もなくし、食べ物がのどを通らず、高カロリー輸液を点滴で補っていたこともあります。そんなときは、テレビでグルメ番組や食べ物を見ると、吐き気がしてテレビをつけるのが怖くなってしばらくつけないこともありました。物がたべられないので、体力も落ちて、ベッドの上に数分座るということすらできませんでした。トイレだけはなんとか移動しましたがそれ以外は常に横になっていました。 体力的にきつかったのが吐き気で、1日に何度も吐いくので胃も痛くなり、私はもう美味しいものを美味しく食べることが出来なくなってしまうのかと思うほどでした。
また、抵抗力が落ちて感染にかかりやすいために面会の制限が厳しく、友達や職場の人にも会えませんでした。退院した今もすっかり元気になったわけではなく、通院しながら、自宅療養をしています。ですから、まさか今年も伊豆高原に行けるなんて思いもしていませんでした。がんばれ子ども村のお計らいで、豪華なホテルで、私のような癌を経験した子供たちや、お父様お母様とお話しや交流ができる場を設けてくださりありがとうございました。
夕食も素敵なご馳走が出てたくさんいただきました。とても美味しかったです。 私はイタリアン調理の世界へ進んでいきたいので、盛り付けなども、とても勉強になりました。
それから、手作りのパウンドケーキとビスコッティを受け取っていただきありがとうございました。 今年もありがとうございました!そして飛行機代を負担してくださったNPO遊びのボランティアさん、ありがとうございました。
{%男の子ロン毛deka%}3歳児の母
この度は、素敵なホテルにお招きいただきましてありがとうございました。皆様の細やかなご配慮と美しい自然の中で、とても有意義な時間を過ごすことができました。オムツをどこに捨てたらよいか聞かなければと思いながら、部屋に着くとトイレにオムツボックスが用意されていて大変助かりました。細やかなお気遣い大変嬉しく思いました。
お料理があまりに美味しくて、図々しくも飲みすぎてしまい反省しております。
まだ三歳になったばかりの息子にまで、立派なお料理をご提供頂き、感激致しました。
息子は骨髄性急性白血病という病気を患い、七ヶ月間闘病しておりました。退院して一年半が過ぎようとしています。リラックスした雰囲気の中で、当時を振り返り、皆で不安や苦しみを分かち合い、未来を語り、勇気をもらうことができました。同じ病気で苦しんだご家族と、そして病気をした当人とこのように話せる機会が無かったので、稲葉様、スタッフの皆様には掛け替えの無い時間を頂きました。心より感謝しております。
大自然の中、大声で笑い、走り回る元気なちびっ子を見ていると、胸がいっぱいになりました。再発の心配はありますが生死をさ迷う、大病をしたのが嘘のようです。
息子は大きなお風呂に、大喜びでした。翌朝、私が「お風呂行くよ~」と言うと飛び跳ねていました。朝日が射し込むお風呂は、子どもながらに気持ちよかったのでしょう、中々出たがらずに顔を真っ赤にして、鼻の頭に汗をかいていました。
私事になりますが、息子は少々発育に遅れが出てきています。発育クリニックのドクターは言います。
「何か意味のある単語を発しますか?」
グーチーパー、チッタッタ、親にとってはどれも意味のある言葉ですが、言葉の先にある行動につながるものが意味のある単語のようです。
旅行から帰った夜、私は無意識に「お風呂行くよ~」と言いました。
息子は「おーぶーぼ、おーぶーぼ」と楽しそうに飛び跳ねました。
息子ははっきりと「お風呂」という単語を発してくれました。楽しかった時間、大浴場が鮮やかに蘇りました。きっと息子も同じです。
一泊ではありましたが、こんなにも充実した旅行は初めてでした。息子は『お風呂』という、意味のある単語を発するという驚きの成長を致しました。言葉にならない喜びでいっぱいです。皆様のおかげでございます。本当にありがとうございました。影ながらではございますが、皆様のますますのご活躍を心よりお祈り申し上げます。
3歳坊やの笑顔ぴかぴか
{%女の子ブラウンdeka%}三上 史(遊びのボランティア)
伊豆高原の旅行に初めて参加させて頂きました。参加している子ども達の第一印象は「元気!」というものでした。サッカーボールを蹴りながらホテルの周りを散歩している時にも,子ど
も達はいろいろなものに目を向けながら散策をしました。セミの抜け殻を集めたり,蜘蛛の巣が太
陽の光に照らされて光っているのをみんなで見てみたり。普段の生活では見過ごしがちなことに目
を輝かせている子ども達を見て,子ども達の貴重な夏休みの思い出を,ひとつ増やすことのお手伝
いができてとても嬉しかったです。
入院をしていた頃,一日のほとんどを病室のベッドの上で過ごし,病室からなかなか出られない生活を送ってきた子どもたちにとって,このような自然の中での体験はとても貴重なものです。小さな窓枠の限られた視界からしか外の様子を見られず,家族との面会時間にも制限があるために孤独な中で病気と戦わなければならない。また,入院生活が長くなるにつれ,闘病のつらさからだんだんと大人に対して当たりが強くなっていったり,心を閉ざしてしまったり,入院したことで笑顔が徐々に減っていき,なかなか笑っている表情を見られない子どももいます。た。しかし,そんな入院生活を小さな体で頑張ったからこそ,今こうして子ども達は元気に過ごせています。 2日目の朝,家族のみなさんのとても楽しそう
な笑顔は,入院中からは想像もつかない程に穏やかな時間を過ごされたように思いました。
“ガラガラドン”1日体験の声 沖縄より
“ガラガラドン”を体験して
2015年7月4日(土曜)11時~16時半
沖縄県立南部医療センター・こども医療センターボランティア “ ぷれぱ” 田中浩美
都営線若松河田駅を下車して徒歩1分。“ガラガラドン”の事務局を訪問。マンションの一室でボランテイアの方が作業をしている所におじゃまして、代表の坂上和子さんとお話をしました。お忙しい中、坂上さんが三人分のお昼ご飯を作って下さり、私までごちそうになりました。三人で団らんしている所へ学生さん二人が来訪。ガラガラドンの活動の希望者ということで一緒に説明を聞きました。それから徒歩5分ほどで国立国際医療研究センター(小児病棟は27床)に移動。
この日は私を含め、9名のボランテイアが訪問しました。ボランテイア室は、机と椅子があり、相談室と兼用になっています。そこにボランティア専用のおもちゃ棚が2台あり、おもちゃは赤ちゃんから大人まで遊べるおもちゃが、ぎっしりありました。
ボランティアの手順はまず、エプロン・マスク・名札を付けます。それから、ナースセンターに移動して手洗いをします。週リーダーは看護師さんから遊べる子どもの情報を得ます。
たとえば、プレイルームに来る子、病室に入って欲しい子、遊びに必要な性別や年齢も情報を得ます。
ガラガラドンには、週ごとに坂上さんのほか、週リーダーが3人います。その週リーダーたちがボランテイアの配置を決めます。たとえば、長期入院の子どもだと前に遊んだ経験の有無などをみて配置していました。この日はプレイルームに三人のボランティアが配置され、後は個室にボランティアが配置されました。代表の週リーダー子どもにつかず、病棟を巡回しておもちゃを補ったり、うまく遊べているかをみて回ります。
私はプレイルームと個室の双方に参加させていただきました。プレイルームでは最初は親子二組と幼児が二人いました。点滴台をつけている子ども同士がボール遊びをしたので、点滴に気をつけて一緒に遊びました。その後、長期入院の10代の女の子の個室に入りました。2人のボランテイアが入って、トランプなどのカードゲームをしたり、ビーズでブレスレットを作ったりしていました。私も加わり、3人でおしゃべりしながら手を動かして楽しい時間でした。終了時間には、週リーダーさんが「後5分で、お片付けです」と終わりの時間を告げに来て、片付けもスムーズにできました。
活動が終わったあとは、ボランテイア室で、振り返りの時間をもちます。活動の記録は遊んだ子ども一人ずつを記録しています。そして気づいたこと、ヒヤリとしたこと、困ったこと、嬉しかったことなど意見を出し合っていました。その他、長く入院している子どもには、家族あてに、ハガキ1枚程度の遊びの記録を渡していました。それは、ボランティアの時間に家族が外出したり、病室にいなかったりするので、家族に安心していただくために渡しているということでした。この報告は複写をして看護師さんにも渡されます。また、この振り返りの時間に「ボランテイア活動の心得」を読み合いました。ここには、遊びのボランティアの役割、ベッドの上げ下げに関する注意、ボランティアの倫理なども記載され、安全で信頼を得て活動するための基本を確認し合っていました。
私は東京新宿区の高度医療の小児病棟で遊びのボランティア活動がで25年続いているということを聞いて、かねてからその現場を見たいと思っていました。たまたま上京する機会があり、坂上さんに1日体験をお願いしました。実際、ボランティアがプレイルームだけでなく、小児がんなど難しい病気の子どもものベッドサイドに入っていることに驚きました。なぜ、それが出来るのかを考えた時、長年の活動の信頼と、坂上さんがコーディネーター役も果たされているからだと思いました。
国立国際医療研究センターにはボランティアコーディネーターはいません。新宿区の訪問保育士だった坂上さんがボランティアを立ち上げ、コーディネーターの役割を担ってきた歴史があります。たくさんのおもちゃも、ボランティアたちが寄付や助成金で揃えたということです。この間にベテランのボランテイアが育ち、週リーダーとして、コーディネーターの役割を学び、新人への教育も徹底されています。
坂上さんとお話しする中で感じたのは気さくなお人柄と活動への情熱です。「何かあったらいつでも連絡してね、沖縄にも病棟ボランティアを広げてね」とおっしゃり、心強く感じました。また、活動の中で遊びの内容や安全面への配慮など、長年継続されて引き継がれている事を素晴らしいと思いました。
初めて訪問した私に貴重な時間を下さり、ありがとうございました。
{%拍手webry%}田中さん、沖縄からはるばる、ようこそおいで下さいました。田中さんは元保育園で働いておられた保育士さんです。活動先の南部医療センター・こども医療センターでは、近いうちに平日だけでなく、土曜日にも、病棟における遊びのボランティアを導入することになるそうです。田中さんのように子どもの成長発達に詳しい方が病棟でそのスキルをボランティアとして提供してくださることは、病院にとっても心強いパートナーであると思いました。ガラガラドンのシステムがみなさまの活動の参考になりましたら幸いです。
ボランティアコーディネーター坂上和子(保育士・社会福祉士 )
愛する息子を天に送ってから1年を迎えて
2015年6月14日(総会の交流会にて) 今泉さんの報告
息子信太郎君の話をする今泉さん(左)
今日は、このような機会を与えて下さり、坂上さん、ありがとうございます。
皆さまの大切な時間を割いていただき、本当にありがとうございます。
私が遊びのボランティアに導かれたのは息子の縁によります。
息子・信太郎は、2年前の平成25年5月23日に、虎の門病院で生まれました。
私たち夫婦にとっては、結婚12年目にして授かった念願の子供だったので、本当に嬉しかったです。
しかし、生まれてからすぐに異常がみられ、3時間後には、NICU(新生児集中治療室)がある東大病院へ、主人と共に救急車に乗って移されました。
そして色々な検査の結果、先天性の病気である、「18トリソミー」という病気であることがわかりました。これは、2か月後の生存率は50%、1才になれる確率は10%だというのです。
こんなに愛されて、こんなに待ち望んで生まれてきてくれた子が、1年後、ここにいるかどうかわからないというのです。
あまりの容赦のない告知に、呆然とし、主人と2人で、泣いて泣いて泣きとおしました。
子どもは希望であるはずなのに、どうしてうちの子供は、死と隣り合わせなのか。
なぜ生まれた時から、死がそばにあるのか。
どう考えても、どう転んでも着地地点がなく、はらわたが引きちぎられる思いでした。
それでも生活は、不安と恐怖を胸に抱えながらも、動き出して行きました。
私は毎日、1日7回の搾乳と病院通い、主人は会社が終わってから病院に毎日通い、
夜8時、9時に病院を出る、という生活が続きました。
しかし、子どもというのは、本当にすごいです。
どんな病気でも、この子は、今、ここに、生きて、いてくれる。
この存在の大きさです。 これが、私にとって、全てでした。
心臓に穴が開いているため、ろくに、声を出して泣くことができない、自分で呼吸できないから、呼吸器を鼻に取りつけて心臓を動かしている、寝返りを打つことも出来ない、
呼吸するのを忘れて酸素が体に行き渡らなくなって、あっという間に顔がみるみると紫色に変わっていったり、口からオッパイを吸うことも出来ず、チューブで胃に母乳を入れたり、腸の力が弱いので、浣腸をかけてうんちをだしたり。おっぱいを吸うこと、泣くこと、手足を動かすこと。「信太郎!今日は、自分でウンチできたねぇ!えらいね!すごいね!」。 こんな当たり前のことが、こんなにも大変で、そしてひとつひとつ出来ることが、こんなにもうれしいことだなんて、初めて知りました。
私は毎日信太郎に会えるのが、もううれしくてうれしくて、どうしようもなかったです。
信太郎は、2カ月間NICUにいて、その後、GCU(成長期治療室)に7カ月間、その後、小児一般病棟に1カ月間いて、退院し、生まれてから10か月目にして、初めて、自分のおうちに帰ってきました。
おうちでの生活は1カ月半ほどでしたが、気管切開をして人口呼吸器を付けていたので、
1日7回の搾乳、5回の、母乳のごはんと薬、たんを取るための吸引をしたり、浣腸やブジーといって、お尻の穴からチューブを入れて、ガスを出したりすることは1日に何回もです。
ガスを出さないと、お腹がだんだん膨らんできて、呼吸をするのが苦しくなるからです。午前中は、訪問看護の方やヘルパーさんがお風呂に入れるために家にきてくださり、夜中は、信太郎の呼吸器に不具合や体に異変があるとピーッ、ピーッとアラームが鳴って起こされて、もう、次から次へとやることがあって目が回りそうでした。
病院で看護師さんに手伝って頂いたことを全部自分でやらなければいけませんでした。
信太郎もだんだん家に慣れてきた様子でした。
ベランダに出して外の空気にふれさせたり、日の光を感じさせたり、おばあちゃんにお歌を歌ってもらったり、お父さんやみんなに毎日抱っこされて、しあわせな時間を過ごしました。しかし、肺炎をきっかけに、調子が悪くなり再入院し、5月30日、とうとう、1才と8日間で、神さまのみもとへ帰りました。
信太郎がいなくなってからの私は、毎日、写真を見て泣いてばかりでした。結局、私は、信太郎に対して、母親として、なにも出来なかった、結局死なせてしまったじゃないか、あんたは頑張ってきたつもりかもしれないが、何もやってないじゃないか。そんなふうに考えていました。しかし在宅子ども医療専門のあおぞら診療所の訪問看護師の梶原さんという方が、「しんちゃんは、1年という短い時間だったけれど、70才、80才の人と同じように、自分の持っている命の力を使い切ったんだよ」と教えて下さり、本当に救われました。
また私はクリスチャンですので、病気を持った子供も、どんな子供でも、私たちは神さまに愛されてこの世に生まれてきた。神さまの御用を果たすために生まれ、御用が済んだら、神さまの下へ帰るんだよ、と。
他の人から見たら、1年でかわいそうにと思われるかもしれないけれど、たった1年でも生まれてきた意味があり、尊いものである、そこには、私たち人間にはわかりえない、神さまの愛のご計画があるということを教えて頂きました。
私は、涙にくれながらも、なんとか、病気の子供達やお母さんたちの役に立ちたいと思うようになりました。
そのような中で出会ったのが、ガラガラドンです。
ホームページや坂上さんの書かれた本を読ませて頂いたり、実際に何度かボランティアをさせていただいて感じたことは、20数年という長い間、地道にコツコツと活動を続けてこられ、病院との信頼関係を築くことに普請されているのが伝わってきました。何よりも、病気の子供たちに遊びを届けて、つらい治療や長い入院生活の中で、遊びを通して少しでも元気になって笑顔になれるようにと、その一心でひたすらに歩まれてこられたこの活動に感動しました。また1回1回、ひとりひとりの子供に対し細かく記録を取ったり、病院との連絡を密にとられ、また活動中に事故がないように、名札ひとつにしても、ボランティア同士のおしゃべりにしても、細心の注意を払われ、本当に、丁寧にされていると感じました。
私の子どもの入院先に、遊びのボランティアはいませんでしたが、色々なことを看護師さんに聞いていただいたり、相談に乗って頂いたりして、本当に心身ともに助けられたことは、絶対に忘れることができません。
遊びのボランティアが入ることによって、子どもだけでなく、お母さんの不安やストレスの解消にもなっていると思われ、そうすると、子どももお母さんも、笑顔が増えます。
簡単に言えることではないですが、やはり、どんな時でも笑顔は一番大切なことなのではないかと、改めて、信太郎がいなくなったあと、考えていました。自分は信太郎の前で、どんな顔をしていただろうか?笑顔のつもりが引きつってばかりいたのではないだろうか、病気が治ることばかり考えていて、子どもとの時間を、ゆっくりと、心に余裕をもって楽しめていただろうか。 自信がないです。
先日、5月31日に、坂上さんのおはからいで、信太郎の命日訪問を作ってくださいました。宮崎さん、みどりさん、こまきさんに、お忙しい中にもかかわらず、家まで来ていただきました。みなさんは、写真を丁寧に見てくださったり、色々話を聞いて下さったり、「しんちゃん、しんちゃん」と呼んでくださったりと、とても嬉しかったです。
信太郎がいなくなって1年が過ぎました。
今まで捨てきれなかった、冷凍庫に山のように入っていた母乳バックも思いきって捨てました。
ボランティアでも、最初のころは、病院の子供達をみると、「かわいそう」と感情移入してしまい、辛くなる時もありましたが、最近は、あまりそのように考える事もなく、子ども達と、今をめいいっぱい楽しもう、という気持ちでさせて頂いています。この1年、遊びのボランティアに参加させていただいたお蔭で、自分の行く場所を作って頂くことが出来ました。そして子ども達には、純粋さとがんばっている姿に、逆に勇気をもらうことが出来ました。
自分には病気を治すことなどできません。ましてや、人の生死を、自分の生死さえをも決めることはできません。死というものがこんなにも絶望で、死の前には人間は、こんなにも無力であるのかと、圧倒されました。
しかし、許される中で、精一杯生きて、そして微力ながらでも、力になれるのなら、力になりたいと思いました。
信太郎は力は弱くても、そのつらさに一生懸命耐え、がんばって生き抜いた、立派な自慢の息子です。
生まれてきてくれてありがとう、と、何度言ってもこの思いが伝えきれないのですが、心から息子に感謝しています。
こんな私ですが、これからも、どうぞよろしくお願いします。
今日は、息子の話を聞いていただき、本当にありがとうございました。
平成27年6月14日(日)
遊びのボランティア 総会 にて 今泉聖美
第11回 NPOの総会開催
ラジオ深夜便でお話ししました
2015年5月7日AM4:00~4:40 「明日への言葉」-病気の子どもたちが輝く遊びを届けて-
NPO法人 病気の子ども支援ネット 遊びのボランティア 理事長 坂上和子
初めてラジオ番組に出ました。きっかけは、遊びのボランティアが東京新聞に掲載されたことによります(2015/1/20)。ある日、記事を読まれた方から、「活動について、お話を聞かせて頂けませんか?」と電話がありました。そして3月初旬、事務所にお見えになりました。
その方は、NHKの「ラジオ深夜便」という番組のディレクターで、バーランド・和代さんとおっしゃいます。バーランドさんは「24年間もこの活動をなさっているんですね」と活動の長さに目を丸くされ、「なぜこの活動を始めたのですか?」「どのような活動ですか」「高度医療の病院で、ボランティアが活動するために、どんなことに気をつかっておられますか?」「こんなに長くボランティアを続けてこられたのはどうしてでしょう」などと、いくつかの質問をされました。
そして放送は5月7日と決まり、収録は4月16日、渋谷のスタジオで行われました。初めてNHKに行き、スタジオに入りました。スタジオには、機械の調整をする男性が一人いらして、バーランドさんと私が、向き合う形で座ります。バーランドさんは、言葉を丁寧に、ポイント、ポイントで、先に述べたような質問をなさって、私が答えていきます。あっという間に1時間がたちました。
私は普段、ラジオはほとんど聞きません。テレビでニュースをみたり、情報を得ているので、どのような方が午前4時の時間帯に、番組を聞いておられるのか?知識のないまま、収録にのぞみました。
ところが放送後、驚きました。その日から電話、メールが次々に入ってきました。
30年前に勤めていた保育園の園長先生、NPO会員、福島で農業をしている友人、遊びのボランティア仲間、見ず知らずの方々からも、感想や激励、ご寄付もいただいております。「心にしみるいい話だった」「20年以上も、お疲れ様」「ぜひ、寄付させてください」などなど、ひと月たった今でも、問い合わせをいただいています。
これらの反響に、あらためて、時代が求める活動であることを確認しました。
今、私たちの社会は核家族が増え、働く女性も増えています。そうした中で、子どもが病気になったとき、きょうだいもいれば、誰が付き添うのでしょう?小児がんのように入院が月単位、年単位になるとさらに大変です。実際小児がんの2歳の子どもが、たった一人で個室にいたりします。24年も、難しい医療現場で私たちが踏ん張っているのは、ここを離れられないほど、病気の子どもと家族は多くの困難を抱えているからです。けれども病院で活動するボランティアの働きは、まだあまり知られていませんし、ボランティアを採用しない病院も多いのです。
この度、ラジオを通して、私たちの活動を伝える機会をいただき、大変ありがたいと思っています。バーランドさんは、私が緊張しないよう、リラックスできるように、気配りされ、肝心な話を引き出す名人でした。また、バーランさんは、3児のお母さんということでした。それだけに、「多くの方々にこの話を伝えたい!」という熱意が私にぐいぐい伝わってきました。心にしみるいい番組」作りは聞き手である優れたアンカーによって生まれていくのだと思いました。
バーランド和代さん(右)とスタジオで