病気になってもいっぱい遊びたい

私達は、病院で子どもと遊ぶボランティアです。退院してからも出会いの場を大切にしています。

過去のブログはこちら

愛する息子を天に送ってから1年を迎えて

2015年6月14日(総会の交流会にて) 今泉さんの報告

息子信太郎君の話をする今泉さん(左)

画像

今日は、このような機会を与えて下さり、坂上さん、ありがとうございます。

皆さまの大切な時間を割いていただき、本当にありがとうございます。

私が遊びのボランティアに導かれたのは息子の縁によります。

息子・信太郎は、2年前の平成25年5月23日に、虎の門病院で生まれました。

私たち夫婦にとっては、結婚12年目にして授かった念願の子供だったので、本当に嬉しかったです。

しかし、生まれてからすぐに異常がみられ、3時間後には、NICU(新生児集中治療室)がある東大病院へ、主人と共に救急車に乗って移されました。

そして色々な検査の結果、先天性の病気である、「18トリソミー」という病気であることがわかりました。これは、2か月後の生存率は50%、1才になれる確率は10%だというのです。

こんなに愛されて、こんなに待ち望んで生まれてきてくれた子が、1年後、ここにいるかどうかわからないというのです。

あまりの容赦のない告知に、呆然とし、主人と2人で、泣いて泣いて泣きとおしました。

子どもは希望であるはずなのに、どうしてうちの子供は、死と隣り合わせなのか。

なぜ生まれた時から、死がそばにあるのか。

どう考えても、どう転んでも着地地点がなく、はらわたが引きちぎられる思いでした。

それでも生活は、不安と恐怖を胸に抱えながらも、動き出して行きました。

私は毎日、1日7回の搾乳と病院通い、主人は会社が終わってから病院に毎日通い、

夜8時、9時に病院を出る、という生活が続きました。

しかし、子どもというのは、本当にすごいです。

どんな病気でも、この子は、今、ここに、生きて、いてくれる。

この存在の大きさです。 これが、私にとって、全てでした。

心臓に穴が開いているため、ろくに、声を出して泣くことができない、自分で呼吸できないから、呼吸器を鼻に取りつけて心臓を動かしている、寝返りを打つことも出来ない、

呼吸するのを忘れて酸素が体に行き渡らなくなって、あっという間に顔がみるみると紫色に変わっていったり、口からオッパイを吸うことも出来ず、チューブで胃に母乳を入れたり、腸の力が弱いので、浣腸をかけてうんちをだしたり。おっぱいを吸うこと、泣くこと、手足を動かすこと。「信太郎!今日は、自分でウンチできたねぇ!えらいね!すごいね!」。  こんな当たり前のことが、こんなにも大変で、そしてひとつひとつ出来ることが、こんなにもうれしいことだなんて、初めて知りました。

私は毎日信太郎に会えるのが、もううれしくてうれしくて、どうしようもなかったです。

信太郎は、2カ月間NICUにいて、その後、GCU(成長期治療室)に7カ月間、その後、小児一般病棟に1カ月間いて、退院し、生まれてから10か月目にして、初めて、自分のおうちに帰ってきました。

おうちでの生活は1カ月半ほどでしたが、気管切開をして人口呼吸器を付けていたので、

1日7回の搾乳、5回の、母乳のごはんと薬、たんを取るための吸引をしたり、浣腸やブジーといって、お尻の穴からチューブを入れて、ガスを出したりすることは1日に何回もです。

ガスを出さないと、お腹がだんだん膨らんできて、呼吸をするのが苦しくなるからです。午前中は、訪問看護の方やヘルパーさんがお風呂に入れるために家にきてくださり、夜中は、信太郎の呼吸器に不具合や体に異変があるとピーッ、ピーッとアラームが鳴って起こされて、もう、次から次へとやることがあって目が回りそうでした。

病院で看護師さんに手伝って頂いたことを全部自分でやらなければいけませんでした。

信太郎もだんだん家に慣れてきた様子でした。

ベランダに出して外の空気にふれさせたり、日の光を感じさせたり、おばあちゃんにお歌を歌ってもらったり、お父さんやみんなに毎日抱っこされて、しあわせな時間を過ごしました。しかし、肺炎をきっかけに、調子が悪くなり再入院し、5月30日、とうとう、1才と8日間で、神さまのみもとへ帰りました。

信太郎がいなくなってからの私は、毎日、写真を見て泣いてばかりでした。結局、私は、信太郎に対して、母親として、なにも出来なかった、結局死なせてしまったじゃないか、あんたは頑張ってきたつもりかもしれないが、何もやってないじゃないか。そんなふうに考えていました。しかし在宅子ども医療専門のあおぞら診療所の訪問看護師の梶原さんという方が、「しんちゃんは、1年という短い時間だったけれど、70才、80才の人と同じように、自分の持っている命の力を使い切ったんだよ」と教えて下さり、本当に救われました。

また私はクリスチャンですので、病気を持った子供も、どんな子供でも、私たちは神さまに愛されてこの世に生まれてきた。神さまの御用を果たすために生まれ、御用が済んだら、神さまの下へ帰るんだよ、と。

他の人から見たら、1年でかわいそうにと思われるかもしれないけれど、たった1年でも生まれてきた意味があり、尊いものである、そこには、私たち人間にはわかりえない、神さまの愛のご計画があるということを教えて頂きました。

私は、涙にくれながらも、なんとか、病気の子供達やお母さんたちの役に立ちたいと思うようになりました。

そのような中で出会ったのが、ガラガラドンです。

ホームページや坂上さんの書かれた本を読ませて頂いたり、実際に何度かボランティアをさせていただいて感じたことは、20数年という長い間、地道にコツコツと活動を続けてこられ、病院との信頼関係を築くことに普請されているのが伝わってきました。何よりも、病気の子供たちに遊びを届けて、つらい治療や長い入院生活の中で、遊びを通して少しでも元気になって笑顔になれるようにと、その一心でひたすらに歩まれてこられたこの活動に感動しました。また1回1回、ひとりひとりの子供に対し細かく記録を取ったり、病院との連絡を密にとられ、また活動中に事故がないように、名札ひとつにしても、ボランティア同士のおしゃべりにしても、細心の注意を払われ、本当に、丁寧にされていると感じました。

私の子どもの入院先に、遊びのボランティアはいませんでしたが、色々なことを看護師さんに聞いていただいたり、相談に乗って頂いたりして、本当に心身ともに助けられたことは、絶対に忘れることができません。

遊びのボランティアが入ることによって、子どもだけでなく、お母さんの不安やストレスの解消にもなっていると思われ、そうすると、子どももお母さんも、笑顔が増えます。

簡単に言えることではないですが、やはり、どんな時でも笑顔は一番大切なことなのではないかと、改めて、信太郎がいなくなったあと、考えていました。自分は信太郎の前で、どんな顔をしていただろうか?笑顔のつもりが引きつってばかりいたのではないだろうか、病気が治ることばかり考えていて、子どもとの時間を、ゆっくりと、心に余裕をもって楽しめていただろうか。 自信がないです。

先日、5月31日に、坂上さんのおはからいで、信太郎の命日訪問を作ってくださいました。宮崎さん、みどりさん、こまきさんに、お忙しい中にもかかわらず、家まで来ていただきました。みなさんは、写真を丁寧に見てくださったり、色々話を聞いて下さったり、「しんちゃん、しんちゃん」と呼んでくださったりと、とても嬉しかったです。

信太郎がいなくなって1年が過ぎました。

今まで捨てきれなかった、冷凍庫に山のように入っていた母乳バックも思いきって捨てました。

ボランティアでも、最初のころは、病院の子供達をみると、「かわいそう」と感情移入してしまい、辛くなる時もありましたが、最近は、あまりそのように考える事もなく、子ども達と、今をめいいっぱい楽しもう、という気持ちでさせて頂いています。この1年、遊びのボランティアに参加させていただいたお蔭で、自分の行く場所を作って頂くことが出来ました。そして子ども達には、純粋さとがんばっている姿に、逆に勇気をもらうことが出来ました。

自分には病気を治すことなどできません。ましてや、人の生死を、自分の生死さえをも決めることはできません。死というものがこんなにも絶望で、死の前には人間は、こんなにも無力であるのかと、圧倒されました。

しかし、許される中で、精一杯生きて、そして微力ながらでも、力になれるのなら、力になりたいと思いました。

信太郎は力は弱くても、そのつらさに一生懸命耐え、がんばって生き抜いた、立派な自慢の息子です。

生まれてきてくれてありがとう、と、何度言ってもこの思いが伝えきれないのですが、心から息子に感謝しています。

こんな私ですが、これからも、どうぞよろしくお願いします。

今日は、息子の話を聞いていただき、本当にありがとうございました。

                平成27年6月14日(日)

        遊びのボランティア 総会 にて 今泉聖美