病気になってもいっぱい遊びたい

私達は、病院で子どもと遊ぶボランティアです。退院してからも出会いの場を大切にしています。

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20周年記念フォーラム ボランティアの声1

《ボランティアにはまっていた学生時代》

こんにちは。ガラガラドンのMです。よろしくお願いします。私は大学一年でガラガラドンのボランティアに出会いました。

私は大学で社会福祉を専攻していて、大学のイベントで先輩ボランティアとして参加していた坂上さんと知り合ったのがきっかけでした。

大学一年でボランティアをはじめ、その後卒業するまで、通常の月一回の活動に加え、長期入院の子どもの平日ボランティアも関わるようになりました。時には、週3日ほど活動していた時期もありました。今思うと、かなりボランティアにはまっていたと思います。

大学在学中に3つの病院にいき、入院している子どもだけでなく、そのきょうだいと遊んだりもしました。

通常のガラガラドンの活動は、毎週土曜日に国立医療研究センターの小児科で行います。入院している子どもとプレイルームで遊んだり、個室にゲームを持ち込んで一緒に騒いだり・・・。中でも、私は乳児室が好きでした。最初は、赤ちゃんの担当になると、ボランティアの時間中ずーっと泣かれ、どうしてよいか分からず、こっちが泣きたくなっていたのですが、慣れてくると抱っこしたときの赤ちゃんの体温が気持ちよくて赤ちゃんの寝顔がかわいくて、段々喜んで入っていくようになりました。

続けるうちに、長期入院している子どもの親や担当のお医者さんから、平日もボランティアに来てほしいと声がかかるようになり、私も参加するようになりました。

初めて個別で訪問したのは、成育医療センターに入院していた、中学生の女の子でした。がんセンターから転院していて、治療のため、年末もお正月も家に帰れないから寂しいとのことで、の日は坂上さんと一緒に行きました。この日が大晦日で、雪が降っていました。雪の中、傘をさしながら病院に向かったことを覚えています。

その後は、一人で行ったり、他の学生ボランティアと一緒に訪問したりしました。

中学生だったので、おもちゃで遊ぶ、というよりは、ガールズトークをしたり、遊ぶときもハンカチにステンシルで模様をつけたり、手芸をやったり…ちょっと女の子らしいあそびをしていました。

ボランティアというよりは、どちらかと言うと友達感覚で、訪問するときも、携帯のメールで、「今日どうする?」、「今日は調子悪いから、無理だー」とか、ある時は、「来て!」みたいな感じでやり取りをしていました。

その子と会うのは、純粋に楽しかったですし、今までのボランティアとまた違った感覚だったので、新鮮でした。ただ、ちょっときつかったのは、病院までの距離と交通費です。

私は千葉に住んでいるのですが、成育医療センターまでは2時間近くかかりましたし、交通費も往復2000円以上しました。

今、社会人になって働いている状態で、もちろんそんな遠くまでボランティアには行けないですし、時間のあった学生だったからこそ通えたんだと思います。しかし、学生にとって往復2000円の交通費は大きな出費です。その時は、NPOから交通費をいただけたので通えましたが、いくら時間があっても、交通費が自費だったら続けられなかったと思います。

入院している子どもの、きょうだいと遊んだこともあります。

がんセンターで、長期で入院している子がいて、そのお母さんがシングルマザーでした。小学2年生の妹がいたのですが、預ける人がいない時は一緒に連れて来ていました。しかし、小児病棟は12歳以下の子どもは入れず、その女の子は母親と病院に来るときはいつも、面会時間の朝10時から夜7時まで、待合室のプレイルームで一人でいました。そこに、私を含めた明治学院大学の学生と、日本女子大の学生がチームをつくり、土曜日の夕方二時間ほど、ボランティアに入りました。きょうだいを病院に連れて来るときと来ないときがあったので、坂上さんがお母さんと携帯で連絡を取り合い、ボランティアの調整と遊びの計画を立てていました。

そのきょうだいの女の子と、一番初めに会ったときがとても印象的でした。

待合室で長時間一人で待っているのはとても心細かったんだと思います。待合室の外から女の子を見たときはとても暗い表情で、大人しそうな女の子だなーと思ったのですが、いざ待合室の扉を開けて、坂上さんが「外に遊びに行こうか」と声を掛けると、一瞬にして表情がぱっと明るくなり、「行く~!」と顔を輝かせて私たちのもとに駆け寄ってきました。

ボランティアの私たちと外に出かけたときの彼女のはしゃぎっぷりは、道路に飛び出してしまうんじゃないかとこちらがはらはらするほどでした。帰るときも毎回、「次はどこに行くの?」「次は何して遊ぶ?」と質問攻めでした。いつも一人で待っている分、大勢で外に出かけるのが嬉しくてしょうがない、というのがとても伝わってきました。

私はそれまで入院している子どもとしか関わりがなかったので、入院している子だけでなく、きょうだいも色々と我慢したり寂しい思いをしたりしているんだということをその時初めて知りました。

白血病で長期入院が必要になった、2歳の女の子のところに、半年ほどほぼ毎週のように訪問し、一緒に遊んだことがありました。その子は周りを笑わせることが大好きで、逆にいつも私たちを笑わせてくれていました。大好きなアンパンマンのぬいぐるみを持って病室に入ると、ぼらんひと~!と言って、狭いベットの上を走り回りながら出迎えてくれて、ほんとにかわいくて、私は大好きでした。

お母さんもとても気さくな方で、子どもが入院してからのことを話してくれたことがありました。その内容を少しだけお話します。

この2歳の女の子は、入院中の8ヶ月間、外泊のとき以外は病院からはもちろん、病棟からもまったく出ていません。お母さんも、家族が遠くに住んでいたこともあり、付添を代わることがなかったので、家に帰ることもほとんどありませんでした。

入院中の食事は、ほとんど売店のお弁当。病棟内にシャワー室があったのですが、その当時、付き添い家族は使用できなくて洗面台で頭を洗ったり体を拭いていたりしていたそうです。髪は一週間くらい洗ってないことがあって、シャワーに関してはそれ以上の期間入ってなかったり、買い物に行くのも、付き添いを代わってくれる人がいなかったお母さんにとっては一大事です。子どもにビデオを見せて、ビデオに集中できる時間を計算して、用事を済ませていたことや、待っている子どもが気がかりで、エレベーターを待つ時間さえ惜しくて非常階段を走って病室に戻っていたそうです。

これまで親御さんの話をゆっくり聞く機会がなかった私にとって、その話はとても衝撃的でした。子どもの発病が人生の中で一番つらく、告知を受けたときはショックで体がちぎれそうだったと話してくれたのですが、子どもが病気になったというただでさえつらい状況のときにそんなに大変な暮らしをしていたことに、逆に私もショックでした。

でも、だからこそ、女の子もお母さんも、ボランティアの日をとても楽しみにしていたと話してくれました。ベットの上から出られず、お医者さんやお母さん以外、ほとんど他の人と接触がなかった女の子にとっては、ボランティアの日は、思い切り遊べる時間だったそうです。お母さんにとっては、ボランティアの時間は、安心して用事を済ませることができ、何よりも辛いときに子どもの笑顔が一番の支えになったと話してくれました。

最後に、もう一人だけご紹介して終わりにしたいと思います。

病気で全盲になり、骨髄移植をした8歳の女の子と大学3年の時に出会いました。

担当のお医者さんから遊んでほしい子がいると坂上さんに連絡があり、それから平日に定期的に通える人がいないかと声がかかって、私は彼女の元に通うようになりました。

彼女は目が全然見えないはずなんですが、折り紙をきれいに折ったり、編み物や、ピアノまで弾き、私なんかよりもずっと器用な女の子でした。遊んでいるときに見せるはにかんだような笑顔がとてもかわいくて、心を温かくしてくれて、関わったボランティアはみんなその子の笑顔のファンになってしまうような、そんな女の子でした。

お医者さんからは少し難しい子どもかもしれないと言われていたようでしたし、私自身、目の見えない子と遊ぶのは初めてだったのですが、一緒に遊び始めると、目が見えないのはほとんど気にならず、毎回、楽しく遊んでいました。

彼女は骨髄移植を受けたのですが、骨髄移植の日にもボランティアが入りました。私はその日は、病院には行かなかったのですが、他の学生ボランティアと骨髄移植に立ち会った坂上さんから、その日の夜に電話がありました。

医療スタッフが数名揃って病室にいる中に、坂上さんたちはマスクとガウンをつけて、彼女のベットサイドに座り、一緒に遊んでいたそうです。最初はゲームをしていたのですが、移植が始まってしばらくたつと、彼女の口数が減ってきたため、お母さんがボランティアに代わり、彼女の側に入ったそうです。するといきなり泣き出し、「点滴を取れ!」と泣き叫びだし、足でベットを蹴ったり、「自分で点滴を取る!」と言ってパニック状態に陥ったということでした。いつも、遊んでいるときの笑顔しか思い浮かばない私にとって、彼女がそんなパニックを起こすほど、色々なことを我慢してきたんだということを、痛いほど思い知らされました。

そして、ひとしきり暴れたあと、お母さんが彼女を抱きながら、「どうしたらいいんだろうね・・・」と聞いたそうです。すると、彼女はしゃっくりをあげながら、「ボランティアさんに毎日来てほしい」と答えたそうです。

電話で坂上さんから話を聞いていたんですが、その言葉は、かなりな衝撃でした。そんな言葉が、一番辛いときに出てくるとは思っていなかったので、涙が止まりませんでした。ただ友達と一緒に話をしたり、遊んだりすることが、私の想像を超えて彼女の楽しみや力になっていたことに気がつきました。

彼女はその後、闘病の末に残念ながら亡くなったのですが、亡くなる前日まで私たちボランティアは病室に会いに行くことができました。骨髄移植の後の彼女の苦しみようはすさまじく、遊びに行っても、その時間中吐いたり、「苦しい、痛い」と訴えたり・・・という状況が続いていました。正直このような状態で私は何ができるのか分からず、そばに座って、体をさすりながら「ちゃんと辛いってことを伝えていいよ」と声を掛けることしかできませんでした。

それでも、私は最後まで彼女に会いに行けてよかったと思っています。辛い時にたまに見せる彼女の笑顔に、私は逆に勇気づけられていましたし、今でも彼女を思い出すと、私も頑張らなければ!という力をもらいます。ターミナル期にボランティアが病室に入れることはあまりないそうで、珍しい例だったと思うので、便宜を図ってくれたお医者さん達にも感謝しています。もしそれまでずっと遊んできた友人として、一番会いに行ってあげたい辛い状態の時、彼女に会えていなかったら、後で私はとても苦しい思いをしたのではないかと思います。

今、改めて振り返ってみると、大学時代だけでもボランティアでたくさんの出会いがありました。私は、病気の子どもの助けになりたいとか、大きな志のようなものを持って活動を開始したわけではありません。ボランティアの時間は、ただ子どもと一緒に私も楽しく遊びたい、それだけだったと思います。でも、それが振り返ってみると、入院している子どもだけでなく、家族にもほっとする時間を与えていたり、きょうだいの支援になっていたり、ターミナル期の緩和ケアにあたるものになっていたりしたんだと思います。それに、私自身、子どもたちからたくさん元気や勇気をもらいました。ボランティア自身も色んなことを感じて成長できるからこそ、活動を続けていけるんだと思います。子どももボランティアも楽しく遊べて、みんなで成長していける病院が増えるといいなと思います。

ありがとうございました。