病気になってもいっぱい遊びたい

私達は、病院で子どもと遊ぶボランティアです。退院してからも出会いの場を大切にしています。

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“ガラガラドン”1日体験の声 沖縄より

“ガラガラドン”を体験して

2015年7月4日(土曜)11時~16時半

沖縄県立南部医療センター・こども医療センターボランティア “ ぷれぱ” 田中浩美

都営線若松河田駅を下車して徒歩1分。“ガラガラドン”の事務局を訪問。マンションの一室でボランテイアの方が作業をしている所におじゃまして、代表の坂上和子さんとお話をしました。お忙しい中、坂上さんが三人分のお昼ご飯を作って下さり、私までごちそうになりました。三人で団らんしている所へ学生さん二人が来訪。ガラガラドンの活動の希望者ということで一緒に説明を聞きました。それから徒歩5分ほどで国立国際医療研究センター(小児病棟は27床)に移動。

この日は私を含め、9名のボランテイアが訪問しました。ボランテイア室は、机と椅子があり、相談室と兼用になっています。そこにボランティア専用のおもちゃ棚が2台あり、おもちゃは赤ちゃんから大人まで遊べるおもちゃが、ぎっしりありました。

ボランティアの手順はまず、エプロン・マスク・名札を付けます。それから、ナースセンターに移動して手洗いをします。週リーダーは看護師さんから遊べる子どもの情報を得ます。

たとえば、プレイルームに来る子、病室に入って欲しい子、遊びに必要な性別や年齢も情報を得ます。

ガラガラドンには、週ごとに坂上さんのほか、週リーダーが3人います。その週リーダーたちがボランテイアの配置を決めます。たとえば、長期入院の子どもだと前に遊んだ経験の有無などをみて配置していました。この日はプレイルームに三人のボランティアが配置され、後は個室にボランティアが配置されました。代表の週リーダー子どもにつかず、病棟を巡回しておもちゃを補ったり、うまく遊べているかをみて回ります。

私はプレイルームと個室の双方に参加させていただきました。プレイルームでは最初は親子二組と幼児が二人いました。点滴台をつけている子ども同士がボール遊びをしたので、点滴に気をつけて一緒に遊びました。その後、長期入院の10代の女の子の個室に入りました。2人のボランテイアが入って、トランプなどのカードゲームをしたり、ビーズでブレスレットを作ったりしていました。私も加わり、3人でおしゃべりしながら手を動かして楽しい時間でした。終了時間には、週リーダーさんが「後5分で、お片付けです」と終わりの時間を告げに来て、片付けもスムーズにできました。

活動が終わったあとは、ボランテイア室で、振り返りの時間をもちます。活動の記録は遊んだ子ども一人ずつを記録しています。そして気づいたこと、ヒヤリとしたこと、困ったこと、嬉しかったことなど意見を出し合っていました。その他、長く入院している子どもには、家族あてに、ハガキ1枚程度の遊びの記録を渡していました。それは、ボランティアの時間に家族が外出したり、病室にいなかったりするので、家族に安心していただくために渡しているということでした。この報告は複写をして看護師さんにも渡されます。また、この振り返りの時間に「ボランテイア活動の心得」を読み合いました。ここには、遊びのボランティアの役割、ベッドの上げ下げに関する注意、ボランティアの倫理なども記載され、安全で信頼を得て活動するための基本を確認し合っていました。

私は東京新宿区の高度医療の小児病棟で遊びのボランティア活動がで25年続いているということを聞いて、かねてからその現場を見たいと思っていました。たまたま上京する機会があり、坂上さんに1日体験をお願いしました。実際、ボランティアがプレイルームだけでなく、小児がんなど難しい病気の子どもものベッドサイドに入っていることに驚きました。なぜ、それが出来るのかを考えた時、長年の活動の信頼と、坂上さんがコーディネーター役も果たされているからだと思いました。

国立国際医療研究センターにはボランティアコーディネーターはいません。新宿区の訪問保育士だった坂上さんがボランティアを立ち上げ、コーディネーターの役割を担ってきた歴史があります。たくさんのおもちゃも、ボランティアたちが寄付や助成金で揃えたということです。この間にベテランのボランテイアが育ち、週リーダーとして、コーディネーターの役割を学び、新人への教育も徹底されています。

坂上さんとお話しする中で感じたのは気さくなお人柄と活動への情熱です。「何かあったらいつでも連絡してね、沖縄にも病棟ボランティアを広げてね」とおっしゃり、心強く感じました。また、活動の中で遊びの内容や安全面への配慮など、長年継続されて引き継がれている事を素晴らしいと思いました。

初めて訪問した私に貴重な時間を下さり、ありがとうございました。

{%拍手webry%}田中さん、沖縄からはるばる、ようこそおいで下さいました。田中さんは元保育園で働いておられた保育士さんです。活動先の南部医療センター・こども医療センターでは、近いうちに平日だけでなく、土曜日にも、病棟における遊びのボランティアを導入することになるそうです。田中さんのように子どもの成長発達に詳しい方が病棟でそのスキルをボランティアとして提供してくださることは、病院にとっても心強いパートナーであると思いました。ガラガラドンのシステムがみなさまの活動の参考になりましたら幸いです。

ボランティアコーディネーター坂上和子(保育士・社会福祉士 )

愛する息子を天に送ってから1年を迎えて

2015年6月14日(総会の交流会にて) 今泉さんの報告

息子信太郎君の話をする今泉さん(左)

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今日は、このような機会を与えて下さり、坂上さん、ありがとうございます。

皆さまの大切な時間を割いていただき、本当にありがとうございます。

私が遊びのボランティアに導かれたのは息子の縁によります。

息子・信太郎は、2年前の平成25年5月23日に、虎の門病院で生まれました。

私たち夫婦にとっては、結婚12年目にして授かった念願の子供だったので、本当に嬉しかったです。

しかし、生まれてからすぐに異常がみられ、3時間後には、NICU(新生児集中治療室)がある東大病院へ、主人と共に救急車に乗って移されました。

そして色々な検査の結果、先天性の病気である、「18トリソミー」という病気であることがわかりました。これは、2か月後の生存率は50%、1才になれる確率は10%だというのです。

こんなに愛されて、こんなに待ち望んで生まれてきてくれた子が、1年後、ここにいるかどうかわからないというのです。

あまりの容赦のない告知に、呆然とし、主人と2人で、泣いて泣いて泣きとおしました。

子どもは希望であるはずなのに、どうしてうちの子供は、死と隣り合わせなのか。

なぜ生まれた時から、死がそばにあるのか。

どう考えても、どう転んでも着地地点がなく、はらわたが引きちぎられる思いでした。

それでも生活は、不安と恐怖を胸に抱えながらも、動き出して行きました。

私は毎日、1日7回の搾乳と病院通い、主人は会社が終わってから病院に毎日通い、

夜8時、9時に病院を出る、という生活が続きました。

しかし、子どもというのは、本当にすごいです。

どんな病気でも、この子は、今、ここに、生きて、いてくれる。

この存在の大きさです。 これが、私にとって、全てでした。

心臓に穴が開いているため、ろくに、声を出して泣くことができない、自分で呼吸できないから、呼吸器を鼻に取りつけて心臓を動かしている、寝返りを打つことも出来ない、

呼吸するのを忘れて酸素が体に行き渡らなくなって、あっという間に顔がみるみると紫色に変わっていったり、口からオッパイを吸うことも出来ず、チューブで胃に母乳を入れたり、腸の力が弱いので、浣腸をかけてうんちをだしたり。おっぱいを吸うこと、泣くこと、手足を動かすこと。「信太郎!今日は、自分でウンチできたねぇ!えらいね!すごいね!」。  こんな当たり前のことが、こんなにも大変で、そしてひとつひとつ出来ることが、こんなにもうれしいことだなんて、初めて知りました。

私は毎日信太郎に会えるのが、もううれしくてうれしくて、どうしようもなかったです。

信太郎は、2カ月間NICUにいて、その後、GCU(成長期治療室)に7カ月間、その後、小児一般病棟に1カ月間いて、退院し、生まれてから10か月目にして、初めて、自分のおうちに帰ってきました。

おうちでの生活は1カ月半ほどでしたが、気管切開をして人口呼吸器を付けていたので、

1日7回の搾乳、5回の、母乳のごはんと薬、たんを取るための吸引をしたり、浣腸やブジーといって、お尻の穴からチューブを入れて、ガスを出したりすることは1日に何回もです。

ガスを出さないと、お腹がだんだん膨らんできて、呼吸をするのが苦しくなるからです。午前中は、訪問看護の方やヘルパーさんがお風呂に入れるために家にきてくださり、夜中は、信太郎の呼吸器に不具合や体に異変があるとピーッ、ピーッとアラームが鳴って起こされて、もう、次から次へとやることがあって目が回りそうでした。

病院で看護師さんに手伝って頂いたことを全部自分でやらなければいけませんでした。

信太郎もだんだん家に慣れてきた様子でした。

ベランダに出して外の空気にふれさせたり、日の光を感じさせたり、おばあちゃんにお歌を歌ってもらったり、お父さんやみんなに毎日抱っこされて、しあわせな時間を過ごしました。しかし、肺炎をきっかけに、調子が悪くなり再入院し、5月30日、とうとう、1才と8日間で、神さまのみもとへ帰りました。

信太郎がいなくなってからの私は、毎日、写真を見て泣いてばかりでした。結局、私は、信太郎に対して、母親として、なにも出来なかった、結局死なせてしまったじゃないか、あんたは頑張ってきたつもりかもしれないが、何もやってないじゃないか。そんなふうに考えていました。しかし在宅子ども医療専門のあおぞら診療所の訪問看護師の梶原さんという方が、「しんちゃんは、1年という短い時間だったけれど、70才、80才の人と同じように、自分の持っている命の力を使い切ったんだよ」と教えて下さり、本当に救われました。

また私はクリスチャンですので、病気を持った子供も、どんな子供でも、私たちは神さまに愛されてこの世に生まれてきた。神さまの御用を果たすために生まれ、御用が済んだら、神さまの下へ帰るんだよ、と。

他の人から見たら、1年でかわいそうにと思われるかもしれないけれど、たった1年でも生まれてきた意味があり、尊いものである、そこには、私たち人間にはわかりえない、神さまの愛のご計画があるということを教えて頂きました。

私は、涙にくれながらも、なんとか、病気の子供達やお母さんたちの役に立ちたいと思うようになりました。

そのような中で出会ったのが、ガラガラドンです。

ホームページや坂上さんの書かれた本を読ませて頂いたり、実際に何度かボランティアをさせていただいて感じたことは、20数年という長い間、地道にコツコツと活動を続けてこられ、病院との信頼関係を築くことに普請されているのが伝わってきました。何よりも、病気の子供たちに遊びを届けて、つらい治療や長い入院生活の中で、遊びを通して少しでも元気になって笑顔になれるようにと、その一心でひたすらに歩まれてこられたこの活動に感動しました。また1回1回、ひとりひとりの子供に対し細かく記録を取ったり、病院との連絡を密にとられ、また活動中に事故がないように、名札ひとつにしても、ボランティア同士のおしゃべりにしても、細心の注意を払われ、本当に、丁寧にされていると感じました。

私の子どもの入院先に、遊びのボランティアはいませんでしたが、色々なことを看護師さんに聞いていただいたり、相談に乗って頂いたりして、本当に心身ともに助けられたことは、絶対に忘れることができません。

遊びのボランティアが入ることによって、子どもだけでなく、お母さんの不安やストレスの解消にもなっていると思われ、そうすると、子どももお母さんも、笑顔が増えます。

簡単に言えることではないですが、やはり、どんな時でも笑顔は一番大切なことなのではないかと、改めて、信太郎がいなくなったあと、考えていました。自分は信太郎の前で、どんな顔をしていただろうか?笑顔のつもりが引きつってばかりいたのではないだろうか、病気が治ることばかり考えていて、子どもとの時間を、ゆっくりと、心に余裕をもって楽しめていただろうか。 自信がないです。

先日、5月31日に、坂上さんのおはからいで、信太郎の命日訪問を作ってくださいました。宮崎さん、みどりさん、こまきさんに、お忙しい中にもかかわらず、家まで来ていただきました。みなさんは、写真を丁寧に見てくださったり、色々話を聞いて下さったり、「しんちゃん、しんちゃん」と呼んでくださったりと、とても嬉しかったです。

信太郎がいなくなって1年が過ぎました。

今まで捨てきれなかった、冷凍庫に山のように入っていた母乳バックも思いきって捨てました。

ボランティアでも、最初のころは、病院の子供達をみると、「かわいそう」と感情移入してしまい、辛くなる時もありましたが、最近は、あまりそのように考える事もなく、子ども達と、今をめいいっぱい楽しもう、という気持ちでさせて頂いています。この1年、遊びのボランティアに参加させていただいたお蔭で、自分の行く場所を作って頂くことが出来ました。そして子ども達には、純粋さとがんばっている姿に、逆に勇気をもらうことが出来ました。

自分には病気を治すことなどできません。ましてや、人の生死を、自分の生死さえをも決めることはできません。死というものがこんなにも絶望で、死の前には人間は、こんなにも無力であるのかと、圧倒されました。

しかし、許される中で、精一杯生きて、そして微力ながらでも、力になれるのなら、力になりたいと思いました。

信太郎は力は弱くても、そのつらさに一生懸命耐え、がんばって生き抜いた、立派な自慢の息子です。

生まれてきてくれてありがとう、と、何度言ってもこの思いが伝えきれないのですが、心から息子に感謝しています。

こんな私ですが、これからも、どうぞよろしくお願いします。

今日は、息子の話を聞いていただき、本当にありがとうございました。

                平成27年6月14日(日)

        遊びのボランティア 総会 にて 今泉聖美

第11回 NPOの総会開催

2015年6月14日(日)  出席22人(委任状8)                時間11時~14時 会場 がんばれこども村  2014年度の事業報告、会計報告、監査報告、次年度の事業計画等の報告をしました。 主な事業報告としては、病院訪問では毎週土曜の訪問が44回、長期児の個別訪問が69回、在宅併せて117回応援しました。子ども延べ444人に対してボランティアは延べ490人がつき、安全でひとりひとりを大切にしています。この個人訪問の中では小児がんの治療を受けている1歳児のママが日中、仕事に出かけ、看病にあたっている方もおられました。核家族や一人親、女性の就労も増えている時代に、ボランティアニーズはますます高まっています。同時に在宅訪問のニーズも高まっています。幼い子どもの通院の付き添いも新たに加わりました。伊豆高原アンダリゾートホテルの招待は、5回目で、長期入院を経験した8人の子どもと親ときょうだい23人、ボランティア併せて30人が参加しました。9月には、4年半ぶりにプレイルームがオープンしました。ガラガラドンでは、テーブル、椅子、ソファ、おもちゃなどを寄付しました。12月には読売新聞と共同通信の取材があり、記事になりました。共同通信の配信は把握しているだけでも全国25紙で、西日本新聞では夕刊のトップ扱いでした。このほか、3月には全国小児病棟遊びのボランティアネットワーク第3回の交流集会を開催しました。 総会の後は交流会。今回は国立国際医療研究センターの師長さんと副師長さんがお見えになったのでお互いの意見を出し合いました。お子さんを亡くされながらボランティア活動をしている方の報告、赤ちゃんが生まれたボランティアの赤ちゃんのお披露目、元患者でこの春、女子大生になったみいちゃんの紹介と報告もありました。 総会で皆さんの意見を聞きながら―
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総会の後には持ち寄りのランチ
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集合写真 赤ちゃんを抱えながらボランティアもいます
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ラジオ深夜便でお話ししました

2015年5月7日AM4:00~4:40 「明日への言葉」-病気の子どもたちが輝く遊びを届けて-

 NPO法人 病気の子ども支援ネット 遊びのボランティア 理事長 坂上和子

初めてラジオ番組に出ました。きっかけは、遊びのボランティアが東京新聞に掲載されたことによります(2015/1/20)。ある日、記事を読まれた方から、「活動について、お話を聞かせて頂けませんか?」と電話がありました。そして3月初旬、事務所にお見えになりました。

その方は、NHKの「ラジオ深夜便」という番組のディレクターで、バーランド・和代さんとおっしゃいます。バーランドさんは「24年間もこの活動をなさっているんですね」と活動の長さに目を丸くされ、「なぜこの活動を始めたのですか?」「どのような活動ですか」「高度医療の病院で、ボランティアが活動するために、どんなことに気をつかっておられますか?」「こんなに長くボランティアを続けてこられたのはどうしてでしょう」などと、いくつかの質問をされました。

そして放送は5月7日と決まり、収録は4月16日、渋谷のスタジオで行われました。初めてNHKに行き、スタジオに入りました。スタジオには、機械の調整をする男性が一人いらして、バーランドさんと私が、向き合う形で座ります。バーランドさんは、言葉を丁寧に、ポイント、ポイントで、先に述べたような質問をなさって、私が答えていきます。あっという間に1時間がたちました。

私は普段、ラジオはほとんど聞きません。テレビでニュースをみたり、情報を得ているので、どのような方が午前4時の時間帯に、番組を聞いておられるのか?知識のないまま、収録にのぞみました。

ところが放送後、驚きました。その日から電話、メールが次々に入ってきました。

30年前に勤めていた保育園の園長先生、NPO会員、福島で農業をしている友人、遊びのボランティア仲間、見ず知らずの方々からも、感想や激励、ご寄付もいただいております。「心にしみるいい話だった」「20年以上も、お疲れ様」「ぜひ、寄付させてください」などなど、ひと月たった今でも、問い合わせをいただいています。

これらの反響に、あらためて、時代が求める活動であることを確認しました。

今、私たちの社会は核家族が増え、働く女性も増えています。そうした中で、子どもが病気になったとき、きょうだいもいれば、誰が付き添うのでしょう?小児がんのように入院が月単位、年単位になるとさらに大変です。実際小児がんの2歳の子どもが、たった一人で個室にいたりします。24年も、難しい医療現場で私たちが踏ん張っているのは、ここを離れられないほど、病気の子どもと家族は多くの困難を抱えているからです。けれども病院で活動するボランティアの働きは、まだあまり知られていませんし、ボランティアを採用しない病院も多いのです。

この度、ラジオを通して、私たちの活動を伝える機会をいただき、大変ありがたいと思っています。バーランドさんは、私が緊張しないよう、リラックスできるように、気配りされ、肝心な話を引き出す名人でした。また、バーランさんは、3児のお母さんということでした。それだけに、「多くの方々にこの話を伝えたい!」という熱意が私にぐいぐい伝わってきました。心にしみるいい番組」作りは聞き手である優れたアンカーによって生まれていくのだと思いました。

バーランド和代さん(右)とスタジオで

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全国小児病棟遊びのボランティアネットワーク第3回の抄録が出来ました

全国小児病棟遊びのボランティアネットワーク第3回について

大阪で開催されました。88人の参加がありました。医療関係者ほか、患者家族、本人、HPS、大学教員、学生、ボランティア、コーディネーター等が参加されました。愛知、広島、京都、大阪、兵庫、東京、神奈川、福岡、沖縄からもご参加戴きました。以下参加者の感想の抜粋をご紹介します。

▼ボランティアを始めたばかりです。それぞれの立場のお話で、多角的な視点を得ることが出来ました。

▼コーディネーターのガッツをすごく感じました。

▼全国のボランティア、パイオニアの方たちの熱い思いを強く感じ、ネットワークで今のいろいろな課題を乗り越えられる希望を感じた。

▼ボランティアの大変さ、奥深さ、定義を再確認することとなり、自己実現のために続けていきたいと思いました。

▼離島で他県の情報が得にくい私たちにとって、とっても実りの多い、貴重な一日です。

▼ボランティア活動は活動の数だけ多様性があり、コーディネーターの方が一から、ゼロから悩み、苦しまれ、今を築かれ、ボランティアの方々が笑顔で生き生きと活動され、それが子どもたちに届き、また子どもたちから笑顔が生まれ、また自分たちに返って来る、すごい大きな輪のお話を聞くことが出来、とても貴重な時間でした。

▼子どもたちに対する熱い思いで活動されている仲間がたくさんいることを知り、心強く思いました。

▼活動を継続させるためにも公的な支援がもっと普及すればと思いました。

参加者の方々と 

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抄録の欲しい方は事務局にお問い合わせください

2014年度のご報告

2014年度の主な出来事

1991年6月に、国立国際医療研究センターの小児病棟に生まれたガラガラドンはこの6月で満25歳になりました。支援は病院だけでなく、退院後にも及んでいます。病院の訪問では毎週土曜の訪問が44回、長期児の個室の個別訪問では69回、退院後の支援を併せて117回応援しました。子ども延べ444人に対してボランティアは延べ490人がつきました。安全に留意しひとりひとりを大切にしています。この個人訪問の中では小児がんの治療を受けていた1歳児がいました。ママは日中、仕事に出かけ、仕事をもっておられました。核家族や一人親、女性の就労も増えている時代に、ボランティアニーズはますます高まっています。同時に在宅訪問のニーズも高まっています。幼い子どもの通院の付き添いも新たに加わりました。

2014年の伊豆高原アンダリゾートホテルの招待は、5回目でした。長期入院を経験した8人の子どもと親ときょうだい23人と、ボランティアも併せて30人が参加しました。9月には、4年半ぶりにプレイルームがオープンしました。ガラガラドンでは、テーブル、椅子、ソファ、おもちゃなどを寄付しました。

今では点滴をひきずってたくさんの親子がプレイルームにやってきて、子どもたちのたくさんの笑顔に出会えています。

12月には読売新聞と共同通信の取材があり、記事になりました。共同通信の配信は把握しているだけでも全国25紙で、西日本新聞では夕刊のトップ扱いでした。

このほか、3月には全国小児病棟遊びのボランティアネットワーク第3回の交流集会を開催。各地で活動しているボランティアらを呼びかけて4団体の共同代表らと開催しました。その他、大学・大学院を卒業された方の声を紹介します。そして、松下竹次先生がご退官されました。ガラガラドン設立から今日まで温かく見守り、励まし、ご指導いただきました。松下先生なくしてガラガラドンは生まれなかったでしょう。そしてこんなに続かなかったでしょう。松下先生、ありがとうございました。

おもなブログ↓

伊豆高原 http://asovo.at.webry.info/201409/article_2.html

プレイルームオープン http://asovo.at.webry.info/201410/article_1.html

在宅支援

りくくんの事例http://asovo.at.webry.info/201409/article_3.html

あかねちゃんの事例http://asovo.at.webry.info/201504/article_1.html

全国小児病棟遊びのボランティアネットワーク第3回

http://asovo.at.webry.info/201506/article_2.html

松下先生ご退官 http://asovo.at.webry.info/201503/article_2.html

大学院を修了いたしました

2015年3月19日(木) 武蔵野大学大学院修了式  修了式式参列者9人  育ての親 シスター方と
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入学式に孫と(2013年4月・58歳)
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修了式に孫と(2015年3月・60歳)
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2013年(H25年)4月入学(58歳)武蔵野大学大学院人間社会研究科実践福祉学専攻 2015年(H27年)3月修了(60歳) 働きながら、大学院、この年で、本当にきつかったです。この2年、「生きて大学院出られるのかな?」「今、東京に大震災が起きたら、論文出さないですむかなあ」、なんてこと、考えていました。論文提出したら2か月近く、倒れてました(>_<) このブログで昨年9月「大学院生やってます」でも報告しましたが、(http://asovo.at.webry.info/201409/article_4.html)この2年、大学院に通って、ソーシャルワーク研究をしていました。 武蔵野大学は構内に入ると樹木が茂って、四季折々に花々が咲いて、自然が豊かな大学です。新宿から中央線で約20分、三鷹にあり、バスに乗り継いでいきます。 まさか、60近い年で大学院は、人生設計にないことでした。 きっかけは大学時代の恩師に勧められたことによります。 先生とは、たまたま、ある会場でばったり。 「今度、武蔵野大学で働く人が学べるように、夜間の大学院が開設されたの。坂上さんにぴったりだと思うのよ。坂上さん、とってもいいお仕事されているし、それに今のままだともったいないと思うのよ。私も今、そこで教えているの」、恩師は、この大学院の開設に関わっており、大学の学長までなさった先生でした。 恩師のお言葉はもったいないほどで、「もし、入れていただけたらがんばります!」とお答えしました。そして現実が始まると、「しまった!!」と思っても後の祭り。ジェットコースターは動き出し、ゆさぶられっぱなしの2年間。 1年目でほぼ単位を取得し、2年目は修士論文に全力疾走。入学当時は江東区に住んでいて、5時に事務所をとび出て、帰宅は毎日11時すぎ、これでは体を壊すと思い、とうとう12月に新宿に引っ越し。少しでも大学と職場に近くに、体が少しでも楽になるようにと。 学期末はレポート提出、論文の文献も集めなくては、楽しいことはお預け、鏡なんてみる時間もなく、毎日くたびれきっていました。よりによってこんな時期に認定NPOを取得しました。(これはやった人でないとわからない煩雑な手続きを要します)、新病棟にプレイルームの開設もおもちゃや備品を揃えて、いくつもの助成金を申請し、仕事と学問の両立のきつさ。 そして、手痛い出費!引っ越し、学費、本代、交通費、お金は出ていくばかりでした。 論文のテーマは「こども病院におけるボランティアコーディネーターの役割の検討」としてA4100枚と資料含め150枚になりました。引用文献は約70、参考文献40、くらくらするほど、勉強しました。おかげさまで修了できましたこと、ご報告申し上げます。 {%拍手webry%}お祝いの言葉 よりによってこの2年間で、お引越し、大きなお金は動きましたが、まだまだ坂上さんが切り開いて行く道があると学ばれた大事な期間だったのだと思います。病院ボランティアコーディネーターの発展に坂上さんが一役買うかもしれません。私はきっとそうなるのだろうと思っています。本当にすごいことをやり遂げられた2年間でした。改めてお疲れ様でした。 ボランティア 佐藤 {%桜webry%}苦節十数年…言うに言われぬご苦労を乗り越えられたら結果、今日があるのだと思い、嬉しく・感動しています。振り返って坂上さんは40代半ばで、大学進学、続いてNPO設立、社会福祉士取得、大学院に進み、修了と言う大事業を見事こなされました。そのご努力と有効な時間の使い方は、見習いたくても出来ない仕業です。今後益々のご活躍を楽しみにしています。お孫さんとのツーショットは、何よりです。二年間の成長が共にお祝い出来ますね。 次回ボランティアの後、ささやかなお祝いを…と思っています。ボランティア門田 {%クローバーwebry%}睡眠時間削っての2年間、よくがんばりました ボランティア古賀 {%花火webry%}晴れておめでとうございます。国内外と大いに力を発揮してください 友人・氏家 {%結婚webry%}挫折することなく達成できたこと神様のお恵みと感謝します。体は痛みつけられています。勉強の成果を生かすためにも、まずは身体づくり、心がけて下さい 理事萬谷